「レクイエム2025」展

● 8月12日~23日 「レクイエム2025」展 
 当館では毎年、この時期に、私の両親の平和を願う活動を継続してレクイエム展を開催している。今年は戦後80周年であるが80年たつと戦争経験者も少なくなり、今後、直接話を聞く機会はほとんどないと思われる。ところで80周年ということで二つの出来事があった。まず国立市の公民館より美術館見学会と講演の依頼があり、公民館の募集により16日に14人の方が来館された。多くの来館者は国立市民であるが、かつて国立にこんな画家がいたんだ、と知ってもらえたらと思う。さらにその画家が国立の小学校の先生であったからなおさらだ。参加者の中には、二紀の事を知る生徒もいて当時の授業の話もあり、良い時間となった。絵の見学と説明など二時間くらいだったが、熱心に鑑賞された。戦争を体験した両親の思いが伝わっただろうか。
もう一つは新聞社の取材で、前述の公民館のお知らせで情報を得て読売新聞の記者が来られた。たまたま日程に時間があったので取材に合わせて一週間早く展示できたこともあり、19日の新聞の多摩版に写真二枚とともに大きく掲載された。記事では海軍で戦艦「榛名」に乗艦した二紀和太留の事が主に取り上げられた。会場には終戦時の日記を掲示していて、その文も一部紹介された。本人は、自分の日記がこのように新聞に出るとは思っていなかっただろう。  
今回、異形の大作である「榛名粛々」も両脇に二枚、錨のある作品を堂々と携えて見応えがあった。平松輝子の「うるわしの大和のくに」と、アメリカの個展で発表した「一万の石の雨」も展示。それは美術史的にも水性アクリル樹脂リキテックスを使った日本人最初の展覧会の貴重な作品と思われる。さらに、石が爆弾の意味だとすると戦争絵画となり、それをニューヨークで発表したというセンセーショナルなことになる。
それらの作品4点とともにゼロ戦の鉛筆スケッチ画も展示。そこに描かれた特攻隊とおぼしき飛行機操縦士の凛々しい姿は何度見ても目を奪われる。一方、観客の一人が、輝子の「廃墟」を見て、その生々しい迫力に感動した、と言われた。戦争画というのは、たとえばピカソの「ゲルニカ」、丸木位里の「原爆の図」、あるいは岡本太郎の「明日の神話」などたくさんある。二紀の「原爆」は原爆が爆発した瞬間を想像で描いたもので、もちろん誰もその瞬間を写真に収めた人などいないが、絵なら想像力で描くことができる。そして太陽と廃墟のシュールな「戦争と平和」、そして戦後間もない頃描いた「暗黒」などの濃密な大作群と「空爆」。今まで展示した事のなかった幾何学的な坂田一男的作品が二枚。
戦後、ちばてつやの「紫電改のタカ」という漫画がヒットした。主人公の滝城太郎が、特攻の命令が来る前に「戦争が終わったら自分は先生になる」と語るシーンがある。昔の教壇にたつ写真がアルバムにある。二紀は画家でもあったが図画工作の先生でもあった。二紀は絵で戦争反対を表現した。
今回、近くの一橋大学のゲストハウスに滞在しているオランダ人、カナダ人が来館された。当館の壁に張られているウクライナ国旗を見て、ヨーロッパでは珍しくないが日本では珍しい、と感心したように言われた。そういえば青山の駐日カナダ大使館の入口にもウクライナ支援の約3メートルの巨大ポスターがあった。ヨーロッパのテレビは常に外国の戦争のニュースを報道するが危機意識があるからだ。日本では「お笑い」しか放映しない。日本人は戦争に関心がないのだろうか。しかし関心がない、では済まない時代になりそうだ。
私は1953年生まれの「戦争を知らない子供たち」であるが、高校の教科書(山川出版社)には日本の敗戦は「デモクラシーの勝利」と書かれ、受験生はそれを丸暗記した。戦後の世界情勢を冷静に見れば、「民主主義の勝利」ではなく「原爆と共産主義」の勝利だった。中国では紅衛兵による暴力クーデターが起き、政権は国民党から共産党に変わり、東欧はすべてソ連のものとなった。さらにソ連、中国は原爆を量産しアメリカに対抗して世界の覇権を狙った。マッカーサーは、朝鮮戦争の当事者となり、日本の戦争は共産主義にたいする自衛戦争だったアメリカの議会で証言した。
通称の「太平洋戦争」という名前から、多くの人は戦争は真珠湾から始まったと誤認してしまうが、なぜあの戦争は始まったのか。
蒋介石は南京が陥落した時、日記に次のように書いている。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。・・撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が呼称を考えるよう望む。」その時彼に、日本軍による南京大虐殺と名付けるアイデアが浮かんだのだろうか。
日本の新聞社の写真を見ると、陥落後の南京は実に平和であった。当時、国民党にいた毛沢東の日記には「南京大虐殺」の事は書かれておらず、1940年から国民党南京政府の主席となった汪兆銘も、「南京大虐殺」の事は一切言及していない。それどころか写真のように日華の合同軍事演習までしていた。大虐殺などがあれば親日政権などできたわけがない。敗走した蒋介石の妻、宋美齢は夫を体験助けるため、ラジオでアメリカ人に南京大虐殺という虚報を流した。中国にいたジャーナリストのF・Vウィリアムズは、すぐに、それが日本兵の仕業ではないと気づき「Behind in the news in China(日本の書籍名、中国の戦争宣伝の内幕)」を上梓し、国民党による虐殺だと書いた。ルーズベルトは蒋介石を助けるため義勇軍を募り、武器を支援し、中国軍の軍事指導をした。この時アメリカが介入し、窮地の国民党を助けなければ、あの大戦争は起きなかった。
戦後生まれた戦勝国により設立された国連では、ソ連と共産中国は常任理事国となり中国は、満洲、モンゴル、チベット、新彊ウイグルを領土とし、ロシアは東ヨーロッパ、最近ではウクライナと領土侵略を継続する。
日本人は、ジェノサイト(民族浄化)を経て奇跡的に生き残ったものの民族存亡の危機は続いた。終戦時はマッカーサーの占領軍によるオキュパイド ジャパン、つまり植民地だった。東京裁判により、多くの政治家の絞首刑が執行され政治家たちは恐怖におののいた。占領軍の指示にしたがわないマスコミ、新聞社は事業廃業の危機となった。新たな言論統制がはじまり、食べるために迎合しなければ生きていけない時代。いつの間にか、迎合が当たり前になった。
ところで大陸で抑留された日本人にとって8月15日は終戦ではなかった。戦後、ソ連は満州に攻め入り、日本人の男たちはシベリアに抑留された。その中に日本人の画家はたくさんいた。今回、彼らの画集である「きらめく北斗星の下に」(シベリア抑留画集出版委員会)と、シベリアに抑留された香月泰男の油絵「日の出」を展示した。油絵で描かれた太陽。この地で多くの日本人が亡くなった。日本から遠く離れたシベリアの地に収容された彼らの望郷の思いが伝わる。
香月の著作「私のシベリア」には収容所での死と隣り合わせの生活の悲惨さが書かれ胸をうつ。その中の一文を紹介する。
「シベリアシリーズの第一作ともいえる「埋葬」を華麗な色彩で描いたのは、多分、戦争と俘虜生活で荒みきっていた精神が、無意識のうちにその償いを求めていたのだろう。せめて絵の上で戦友を暖かく葬ってやりたいという気持ちが動いたのである。」
この説明は、二紀和太留の諸作品に通じるものがある。悲惨な体験は、皮肉にも人の心をうつ傑作を生みだすことも事実。
今回、青野正氏の制作した錆びた鉄のバラも展示した。青野氏は錆びた鉄などを使い戦車や戦艦等の朽ちた作品を制作し戦争の愚かさを皮肉っぽく表現している造形家である。いつになったら戦争はなくなるのだろうか。

教壇に立つ若い二紀和太留

公民館主催見学会の様

会場写真 左から「夜景」「榛名粛々」「聖堂」

会場写真 奥が「荘厳 天の光 マンダラ」

会場写真 左から「原爆」「戦争と平和」右に「うるわしの大和のくに」

二紀和太留「原爆」



平松輝子「廃墟」

平松輝子「一万の石の雨」アクリル、和紙

内閣府 写真週報1940年1月号、南京に赴任した記者に当時、毎日卵を売りに来たという満面の笑顔の少年の写真が表紙。

内閣府発行 写真週報1943年3月、新中国の首都南京における、中国、汪兆銘政府と日本の合同演習の様子

香月泰男「日の出」

二紀和太留「暗黒」

青野正

● 8月24日 「museum concert Utopia」 レクイエム展会場にて
佐藤 康子 (二十五絃箏)、蔡 怜雄 (トンバク・ダフ)、成田 千絵 (チェロ・歌)
国立市文化芸術振興補助対象事業
レクイエム展の展示はそのままに、大型の箏やイラン(旧ペルシャ)の民族楽器、そしてチェロによる、少し変わった音楽会が開かれた。二十五絃箏、ペルシャの打楽器、チェロによる初めての対話で、幅広い世代が楽しめる異文化交流音楽会である。今回、国立市の助成を受けて、市民、子供、老人なども参加しやすいプログラムとした。昼の部は子供対象として安全性に配慮しただけではなく、珍しいペルシャの珍しい楽器の説明もあった。夕方の部では、大人向けとして音楽の専門家的な方も来館されて、今後も定期的に開催して、という要望もあった。佐藤さんの箏とは思えないアグレッシブな演奏。これらの演奏は、意外にも1980年代のキースジャレットたちの前衛ジャズを思い出させて個人的にはなつかしい。また、展示されている作品に興味を持たれた方もいた。



佐藤康子

蔡怜雄、成田千絵、佐藤康子

蔡怜雄